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吉村仁さんの時代【解題】 1 「医療費亡国論」の発表まで

 

「医療費亡国論」を提唱し 医療保険の大改革を成しとげた 吉村仁さんの時代

笹川浩一(「社会保険旬報」前編集長)

厚生省に吉村仁という人がいた。正式名は「ひとし」だが、みんな「じんさん」と呼んだ。昭和59年(1984年)に保険局長として、医療保険の大改革を成しとげた人物である。

この年は「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根康弘内閣が行財政・教育改革の具体策を次々と打ち出し、国鉄の分割・民営化の方向を明らかにした。その一環と位置づけられたのが医療保険の改革である。

保険局長の吉村はこの問題に取り組み、これまでの財政対策とは異なる制度創設以来の大きな改革を行った。その意義は今日でも決して薄れていない。
吉村の言動にスポットをあて、改革実現への道をたどってみた。

(文中敬称略)

吉村仁さんの時代【解題】構成
1 
「医療費亡国論」の発表まで【10月25日掲載】
2 昭和59年改革をめぐる「攻防」【11月1日掲載】
3 医療提供体制の改革に向けて【11月8日掲載】
※本論文は、社会保険旬報No.2687(2017年9月11日号)に掲載されたものです(一部補正)。

 

1 「医療費亡国論」の発表まで

 

健保の吉村、年金の山口 緊迫した59年の課長会議

厚生省は毎年初め新年度の予算案や重要政策を説明するため、全国都道府県の担当課長を集めて会議を開く。霞が関の新庁舎で開かれた昭和59年2月10日の全国保険・国民年金課長会議は、緊迫感がみなぎっていた。
医療保険(以下、健保と略す)は史上初の、年金は国民皆年金発足以来の、それぞれ大改革案が国会に提出されようとしており、その成否は予断を許さなかった。

吉村仁保険局長、山口新一郎年金局長がそれぞれ健保と国民年金の改正の趣旨を説明した。厚生省のエースといわれた同期の2人、山口は「王道」、吉村は「覇道」と評した人もいる。

吉村は乱診乱療の主因といわれる被保険者本人の10割給付をやめて2割定率負担を導入し、医療費を適正化すること、健保と国保の財政調整による退職者医療を創設して給付と負担の公平をはかることが改正の主眼だと述べた。

とくに吉村は、「本人10割給付を9割給付にすることで乱診乱療を是正し、医療費の規模を適正水準にしなければならない。1割程度の負担はできるはずだし、それで生命と健康が破壊されるとは思わない」と強調。
健保連が反対している退職者医療制度の創設には、「退職者の医療費について現役から拠出金を提供してもらうのは筋の通ることで、単なる財政調整ではない」と、健保改正のねらいを説いた。
そして、「各方面の同意は得られないかもしれないが、理解だけは得てほしい。理解の度が進めばそれだけ未来に向かって進んでいける」と結んだ。

つづいて山口は、今回の年金改正は各方面の意見を集約した最善の案であり、国民の理解を得るためPRに努めてほしいと要望した。自信にあふれた山口に対し、吉村には悲壮感がただよい、この年の通常国会で「年金改正は成立、健保改正は継続審議」という印象をうけた。しかし事態は逆になった。

→Ⅲ-2 対照的な保険・年金両局長の発言 №1458(59.2.11)P4座標

→Ⅲ-3 医療保険改革案の中身と制度運営-吉村保険局長(全国保険・国民年金課長会議) №1458(59.2.11)P6~P10レコーダ

 

大改正とひきかえに 2つの巨星が消えた

年金改正案は、スライド部分だけが切り離されて59年12月に成立したが、基礎年金の導入による制度体系の再編成や給付と負担の適正化、婦人の年金権の確立、障害年金の改善などを柱とする改正案本体はそれより遅れ、成立したのは翌年4月である。
ところが健保改正は、59年8月に成立し10月から実施という予想を上回る順調な展開となった。これから8月までの半年間、吉村を中心とする懸命な反対意見への説得と国会工作が実を結び、健保改正の成立へこぎつけたのである。

山口は年金法改正の成立をみることなく、59年6月、現職のまま腎がんのため56歳で亡くなった。
一方、大改正を成しとげた吉村は、59年8月に厚生事務次官となり61年6月に退官するが、それから4カ月後、肝不全のため10月に急逝した。山口と同じ56歳だった。

吉村は肝臓がんだったのに、休まずに局長、次官をつとめたことが死期を早めたといわれる。厚生省の上空に燦然と光を放っていた2つの星は、健保・年金の改正法成立とひきかえに、わずか3年の間に相次いで消えた。

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