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吉村仁さんの時代【解題】 3 医療提供体制の改革に向けて

笹川浩一(「社会保険旬報」前編集長)

【解題】 「医療費亡国論」を提唱し  医療保険の大改革を成しとげた  吉村仁さんの時代
1 「医療費亡国論」の発表まで【10月25日掲載】
2 昭和59年改革をめぐる「攻防」【11月1日掲載】
3 医療提供体制の改革に向けて【11月8日掲載】
※本論文は、社会保険旬報No.2687(2017年9月11日号)に掲載されたものです(一部補正)。

 

3 医療提供体制の改革に向けて

 

吉村厚生事務次官、ポスト健保の課題を語る

厚生事務次官に就任した吉村の第一声は、「ポスト健保」の課題であった。
59年10月、都内で開かれた自民党議員主催の研究会で吉村は、今後の保険医療改革の方向として、①家庭医の創設、②病院・診療所の機能分化、③医療と福祉の結合(中間施設の充実)、④医療へのコンピュータの導入、⑤健康づくり、⑥診療報酬の合理化をあげた。

健保改正で保険医療改革の端緒はつかめた、次は医療提供体制の改革であるとの考えを明確に示したものである。そして、30年以上たった今日、これらの課題への取り組みは、一層重要となっている。

次官としての吉村の最後の仕事は、高齢者対策企画推進本部を60年9月に設け、翌年4月に本部報告をまとめたことである。報告は、21世紀初頭までを「本格的な長寿社会へ移行する過渡期」ととらえ、「活力ある長寿社会」を実現するための社会保障のあり方を提言している。

この報告については、「政策として伸びそうな芽は全部出し、ゆるやかな合意形成をめざして省内外に活発な議論をまきおこす」という吉村本部長の意欲にもかかわらず、「福祉医療制度の創設」や「社会保障特別会計構想」など言葉だけ踊っていて、中身が十分に説明されていないように思える。

→Ⅴ-7 高齢者対策本部報告の意味/高齢者対策本部報告にみる医療保険と医療費の今後 №1539(61.5.1)P3視点/P6~P9動向

→Ⅴ-8 高齢者対策企画推進本部報告 全文 №1539(61.5.1)P31資料

 

医療保険の30年、医師の原点と医療の課題説く

つづいて吉村次官にインタビューしたのは本誌1500号記念のときである(60.4.1~4.11号)。「医療保険の30年―回顧と展望」と題して、皆保険達成前後の昭和30年代から激動の40年代、低成長・高齢社会下の50年代、そして60年代の課題を語った。わが国の医療保険30年の歩みは、吉村自身が歩んできた道でもあった。

「昭和30年代の国民皆保険以前は、防貧対策としての保険制度をつくることが主眼であった。それが皆保険の達成につながっていく。そして40年前半までは、健保の赤字対策が中心課題になった。そのあと高度経済成長の波にのって、制度を少し拡大した。

50年代に入ると、今までのような赤字対策、拡張路線はもはやとれなくなり、医療保険抜本改正の潮流が強くなって、50年代終わりの健保改正によって大体の方向づけができた。60年代は、その路線を進んでいくことになる。それは患者負担を増やし、財政調整の幅を広げていく以外にない」。

しかし、それだけでは医療そのものはうまくいかないと吉村はいう。
「保険医療費には市場原理が働かない。供給が医療の内容を決めるし、価格も決めていく。だから私には、(昭和37年の)制度診療撤廃なんていうのはきれいごとで、規格診療でなければ保険はやっていけないという意識が強烈にあった」。
「国民皆保険は医師を悪くした。いい医師が伸びる芽をつみ、悪徳医がはびこるのを助長した傾向がある。医師を医師の原点から切り離した。だから60年代は、医師は原点に帰れといいたい。医師の原点とは、自分の技量と親切心だ。もう一つ、医療のなかみが変わってくることを理解してもらいたい」。

「人生80年時代は40歳をすぎると病気と共存する人生を何十年か送らなければならない。それは国民にとって、治療だけではない、総合的な健康指導を重視した医療を考えていく必要があるということだ。もう一つつけ加えると、病人にふさわしい医療が効率的に受けられるようなシステムをつくらなければならない。吉村医院でみてもらっておかしいなと思ったら、すぐ病院へ行ける、さらにもっと高度医療をうけられる病院へ行ける道をつくる。また中間施設へも入れるようにする。このような3つの問題が今後の医療の課題であろう」。

保険局長当時に比べると、ゆとりも出て、静かにたんたんと語った。

→Ⅰ-6 医療保険の三十年-回顧と展望(上)-厚生事務次官・吉村仁氏にきく №1500(60.4.1)P13~P19移動マイク

→Ⅰ-7 医療保険の三十年-回顧と展望(下)-厚生事務次官・吉村仁氏にきく №1501(60.4.11)P14~P17移動マイク

→Ⅰ-8 高齢化社会へ向う医療政策-厚生事務次官・吉村仁氏にきく №1527(61.1.1)P12~P17移動マイク

 

厚生省を去る日 命の限り鳴いた蝉しぐれ

吉村次官が厚生省を去る日がきた。61年(1986年)6月13日午後、新旧次官の交代式が厚生省の全職員を集めて開かれた。

吉村はまず、「33年の役人生活で厚生行政も日本も変わり、今後も変わっていくだろう。重要なことは、天下に対して柔軟・勇敢に対応していくことだ」と述べた後、こうしめくくった。「蝉しぐれを奏でさせてもらって、運のよい人生であった。命の限り鳴いた蝉も、今日でやむ」。
そして、「幸田新次官のもとで一致結束し、厚生省の発展のためにつくされることを心から念願する」と結んだ。

吉村はこのとき、自からの寿命を知っていたのだろう。それからわずか4カ月で世を去る。

吉村の追悼集で200人近い人が寄稿している『吉村仁さん』(1988年、ぎょうせい刊)という本で、下村が明かしている。
吉村の保険局長就任と同時に彼の発意で国民医療費適正化対策本部が設けられ、局内での議論が活発になっていくが、吉村は下村にある日、「誰にも言ってくれるな」と断ったうえで、「虎ノ門病院で検査をうけ入院をすすめられたが断ってきた」と話し、さらに入院をすすめる下村に、「3年はもたせてくださいよと頼んできた」といって、入院することを頑として承知しなかった。

→Ⅴ-9 セミしぐれの次にくるものは?  №1545(61.6.21)P4座標

→Ⅰ-1 吉村仁・前厚生事務次官の足跡 №1559(61.11.11)P13~P15潮流

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