年金時代

第7夜 第15回年金部会「社会保障審議会年金部会における議論の整理」を巡って その2

社会保障審議会年金部会は、2018(平成30)年4月から2019(令和元)年12月までの15回にわたって、年金制度改革に向けた検討を行ってきました。昨年12月15日に開催された第15回年金部会では、これまでの部会の議論を整理。同27日には「社会保障審議会年金部会における議論の整理」が公表されました。第7夜の「居酒屋ねんきん談義」では、この「議論の整理」をテーマに年金部会の委員でもある、出口治明さんをお招きして、居酒屋ねんきん談義の店主・権丈善一さんと常連客・坂本純一さんとで、大いに談義を交わしていただきました。(収録:2020年1月19日)

ねんきん談義を交わす左手前から、権丈氏、出口氏、坂本氏。

店主:権丈善一(けんじょう・よしかず)慶應義塾大学商学部教授。社会保障審議会年金部会委員。2013(平成25)年8月、財政検証において年金制度改正の課題の検討に資するオプション試算の実施を提言した社会保障制度改革国民会議の委員も歴任。

常連客:坂本純一(さかもと・じゅんいち)JSアクチュアリー事務所代表。厚生労働省年金局数理課長として、現在の公的年金制度の財政フレームを導入した2004(平成16)年改正を担当。

招待客:出口治明(でぐち・はるあき)立命館アジア太平洋大学(APU)学長。社会保障審議会年金部会委員。1948(昭和23)年三重県生まれ。京都大学法学部出身。1972年日本生命保険相互会社入社。2006(平成18)年同社退職。2008年ライフネット生命保険株式会社開業、社長に就任。2012年上場。2017年6月同社取締役を退任。2018年1月立命館アジア太平洋大学(APU)学長に就任。

店員:年金時代編集部

 

民主主義だからこそ、市民に政策決定のプロセスを理解してもらうことが大切

権丈坂本さんも実際に2004(平成16)年制度改正をご担当されていたので、お伺いしたいのですが、たとえば、年金局の担当になり改革を進めようとされるとき、これまでどのような方法で改革を実現するための法律の作成まで進めようとされたのでしょうか。おそらく出口さんもそうだと思うのですが、ぼくは政策を動かしていく力と現実の民主主義のあり方ということを意識するんですよね。
いままでは毎回毎回、役人は非公開の場、言わば密室で政治家を説得して、政治家のほうも誰が何を発言したかは世間に出さないままです。しかし、このような密室で政策の方向性が決まっていくプロセスをなんとかして、市民に理解してもらうプロセスにしていかないと、次も企業側のロビイングに負けますよ。

権丈善一氏。

坂本2004(平成16)年制度改正までは、やはり、いま権丈さんがおっしゃった、どちらかというと、いまと比較すれば密室に近いかたちで国の政策が進められてきたように思います。実際、審議会は非公開でした。当時は年金審議会という組織でしたが、そこに課題をあげるときにはすでに政治家とも議論をしながらあげていました。

坂本純一氏。

権丈しかも関係団体との間での意見も、許容できる範囲のものがあがってきたりしていて、年金審議会での議論が始まっていくわけですね。

坂本そうした密室でのやり取りがもれたりすると、当時は上から叱られたりするようなこともありました。しかし、2004(平成16)年制度改正を経て、そのあたりがずいぶんオープンになってきたという感じがしました。その兆しは2000(平成12)年制度改正のときにすでにあったのですが、もう情報を共有しないと、ちゃんとした制度改正ができないと、そういう意識が2000(平成12)年制度改正のころから高まりつつありました。それは、ひとつには官僚のスキャンダルがあり、あれで政治家ともなかなか話ができないという状況のなかで、どういうふうにいまある課題を進めていくかということに直面したのです。そうしたときに、この状況を打開していくにはディスクローズしかないという意見が出始めたのです。それが2000(平成12)年制度改正のころからです。そして、2004(平成16)年制度改正のときには、もうちょっとそうした機運が高まったのですが、社会保障制度改革国民会議によって、そうした方向に一挙に変わっていったという印象があります。

権丈政府の審議会のような組織は、関係団体の委員が拒否権を持って参加してくるわけです。そこで、報告書をまとめるときには、手続上、みんなの合意がないとまとめられない仕組になっている。そういう厳しい状況だから、昨年12月25日の年金部会でぼくは、「お疲れさまで、年金局のみなさんは、前向きに倒れたと評価しています」と発言しているんですね。

出口事務局のみなさんがほっとした表情をされていて、名言でしたね。もっと単純に言えば、民主主義って多数決ですよね、だから、年金部会にはプレスも取材に来ているわけですから、ここは事務局の腹の決め方ひとつで多数決をとればいいわけです。そうしたら、誰が抵抗勢力で反対しているのか、みんながわかるわけです。だから、各団体の顔を見て、「議論の整理」の文章を修正するようなことをするのではなく、たとえば、適用拡大について対立する意見が出た、じゃあ部会としては多数決でやりましょうと言って、みんなに手を挙げてもらって、賛成が何票、反対が何票、そして、誰が賛成か、誰が反対かをディスクローズすることによって、市民も適用拡大の方向性が正しいということをご理解いただけるのではないかと思います。

出口治明氏。

坂本いまの役所の対応のしかたは変えていいとは思うのですが、むかしはそういうふうにやって、いわゆる抵抗勢力になっている委員を追い詰めないほうがいいのではないかという配慮みたいなものがあったような気がします。そうすることによって、その委員が自らのポジションを変えるときに、ある意味変えやすくしておくという配慮みたいなものを感じたことはあります。

出口しかし、ぼくが2013年に年金部会の委員を拝命してからというもの、利益団体を代表する委員が、坂本さんがおっしゃるような配慮をありがとうございましたという気持ちで、態度を変えた形跡は一度もありませんでしたよ。相変わらず同じことを主張されていたのではなかったでしょうか。

 

改革をしていないのではない、改革のスピードが遅いのが問題なのだ

坂本そうとはいえ、政治的現実の下では、適用拡大を50人超規模の企業にまで下げたことについては評価できるのではないですか。

出口50人超規模の企業まで適用の対象を下げても、所得代替率で見た効果は+0.2ポイントでほとんど影響がありません。それは痛みがないレベルまで下げただけの話であって、適用拡大について、「よしわかった、日本のために一肌脱ごう」というわけではなくて、この程度だったらあんまり痛くはないのでという話ではないですか。
もっと言えば、影響のあるところまで、痛みが伴うところまで、手を突っ込まないと、この国はよくならないのです。だから、前進には違いないのですが、権丈さんがおっしゃるように前向きに倒れるのは官僚の仕事としては評価できますが、いま日本が問われているのは、前に進むかどうかよりも進むスピードが世界のスピードと比べて、どうなのかということが問われているんですね。ぼくは歴史オタクなのですが、滅んでしまった政府は改革をやっていなかったわけじゃないんです。滅んだ王朝だって、改革をやっていたのです。ではなぜ、滅んだのかと言えば、それは世界のスピードに取り残されたからです。だから、前に進んだからいいという話ではなく、前に進むスピードが世界の動きに比べてどうかということこそが問われているのです。そうしたことからも、ぼくは50人超規模とか、25人超規模とかでいいという話ではないと思っています。

権丈今回の年金部会の「議論の整理」には、「企業規模要件が2012年改正法附則に「当分の間」の経過措置として位置づけられている」ことが記されています。あれから8年経っています。規模要件の撤廃に対応できる時間は何年間必要なのでしょうか。今回50人超規模になりましたが、企業規模が50人超は、総企業数の3.1%でしかない*1。前回の企業規模500人超までを適用拡大にするにしても大変な抵抗が経済界からあったのですが、あの拡大による負担増は、人数ベースで2.2%、標準報酬総額ベースで0.8%程度*2。抵抗勢力はゴネ得ですね。だから、50人超規模まで来たのだから立派だとかいう話をしばしば聞きますけど、市民の間にそういう感覚ができあがることはよくないですね。

*1:「企業規模が50人超は総企業数の3.1%」

*2:「適用拡大による負担増は人数ベースで2.2%、標準報酬総額ベースで0.8%程度」

出所:第15回社会保障審議会年金部会 2019年12月25日 資料2「年金制度改正の検討事項 2019年12月25日 厚生労働省年金局」[22・19頁]
https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/000580825.pdf

 

出口そうです。抵抗勢力のせいで、このぐらいのことしかできないのだということを市民にはちゃんと知ってもらわなければなりません。

坂本そうか、やはり、「中小企業の経営配慮をすべき」とする抵抗勢力のポジションは全然変わっていないという認識をしっかり持たないといけないということですね。それに、原理原則は、事業所の規模にかかわらず、事業主は適正な報酬を被用者に支払わないといけないということですね。

権丈だいたい年金部会みたいな公の場では彼らはそういうことあまり言わないです。2007年の「パート労働者の厚生年金適用に関するワーキンググループ」のときも、午前中に、ぼくらが関係団体と向き合って議論をして、ぼくがさんざん、あなたたちの言っていることは筋が通らないと言ったら、午後には政治家のところに行って、「今朝は慶應の先生からひどいことを言われた」と言って泣きつく――これは泣きつかれた政治家から聞いた話ですけどね(笑)。
社会保険の適用除外という制度ゆえに社会保障が差別化、社会の分断を生んでいる、社会的弱者を生んでいる原因になっているというばかばかしい話は、広く国民の常識にまでならないといけないですね。

坂本賃金そのものはもうすでに差別化されていますね。

出口しかも、一番力の弱い被用者が国民年金に追いやられているので、国民年金についての議論がまた生まれてくるわけであって、被用者すべてに厚生年金を適用拡大したら、国民年金がどうだ、こうだというゆがんだ議論も起こらないのです。だから根本がゆがんでいるといろんなところでゆがみが生じてしまうのです。そこで、ぼくが一番議論をしなければいけないと思っているのは、適用拡大をしたら中小企業がどうなるのかということを、準備ができていない、たいへんだ、たいへんだ、という総論だけではなくて、ほんとうに何がどの程度、定量的にたいへんなのかを一つ一つ検証しなければいけないと思っています。
これはデービッド・アトキンソンも言っているのですが、どんな産業にも競争が必要で、ちゃんといい経営をしないゾンビ企業を残存した社会は必ずおかしくなるのです。だから、ある意味では、いまは構造的な人員不足ですから、団塊世代の200万人が引退して、新社会人は100万人ちょっとですから、誰でも働ける社会なのです。いまの日本の社会は、レイオフと適用拡大を一挙にやる絶好のチャンスなのです。労働市場の流動化が乏しく、労働需給が厳しくないときにはこんなことはできませんが、いまはレイオフをやる好機なのです。解雇しないことが人に温かいというのはとんでもない話で、しかもやる気のあるほんとうに優秀な人が、しかも人生の旬のときに図書館で一日中資料を作らされたりして、腐っていくわけですから、こんなかわいそうなことはないと思うのです。何回でもやり直しができる人生をつくっていくことが、はるかにヒューマンなことで、会社のいじめとか、追い出し部屋というのも全部レイオフが自由にできないことのゆがみから生じたことではないでしょうか。だからレイオフしてもいくらでもチャンスを与えることができる社会をつくっていくことが人にとって本当に優しい社会だということを訴えていかなければいけないと思うのです。

 

社会保険料を負担できない経営者に人を雇う資格はない

出口適用拡大に関連して言えば、中小企業にも適用拡大がなされて、すべての中小企業が社会保険料を支払うようになったら、経営者の選択肢は2つです。保険料を払えずにつぶれるか、経営を必死にがんばって保険料を支払うかです。結果的に生産性が上がって、改善意欲があるところだけが残ることになります。改善意欲がないところはつぶれますから、マーケット原理を導入することによって、そうした中小企業が属している産業全体の足腰が強くなるのです。だから、適用拡大は社会のためになるのです。つぶすのはかわいそうだとか、経営配慮すべきだという考え方は根本からまちがっていることをみんなで議論していかなければなりません。逆に言えば、適用拡大を一斉にやれば、決まったことはしょうがないとあきらめて中小企業の経営者みんなががんばるわけです。そのことによって日本の産業が活性化していくのです。平成の30年間、こんなに停滞した社会はありません。労働時間は正社員で計算したら2,000時間ちょっとで、30年間まったく減っていません。まったく減っていないのに成長率は1%あるかないかです。こんなに働いているのに、成長していないということは、いかに生産性の低い仕事のしかたをさせていたかということなのです。

坂本労働生産性だけでなく、生産年齢人口が減っていることも、経済成長の低さということに影響しているのではないですか。

出口ほんとうに生産年齢人口は減っていると言えるのでしょうか。15歳以上65歳未満という従来の定義から見れば確かに少し減っています。しかし、いまは75歳くらいまでは働くようになっています。地方などではもっと顕著で、ぼくがいる別府では人手不足で、タクシーの運転手はほとんどが70歳以上です。だから、実際の労働人口で見れば、平成の30年間は減っていないとぼくは見ています。

坂本確かに就業者数は減っていないですね。むしろ微増している。

出口だから、極端に言えば、効率の低い産業はつぶしていかないといけないのです。非効率の産業を残しておくから、みんながだらだら長時間働いて貧しくなってしまうのです。1%成長しかしないから貧しくなり、社会が閉塞感を持ち、みんながやる気をなくしてしまうのです。だから、むしろ非効率な産業はつぶさなければいけないというように社会の意識を変えなければいけません。解雇するのはかわいそう、会社をつぶすのはかわいそう、補助金で生かしていこうというのは、実は不親切なことなのだ、社会にとってマイナスなのだということを議論しなければいけないのです。

権丈そうですね。だから、今回の年金部会では繰り返し、出口さんとぼくとかが、適用拡大こそが成長戦略だという話をしていたんですよね。
「居酒屋ねんきん談義」の第4夜でも次の図*を使って話していることですけど、世界でも良質とみなされている日本の労働力を使いながら社会保険料を払うとつぶれますというくらいの付加価値しか生んでいないのは経営者の責任ですね。戦場で旧式の武器しか兵士に準備していない将のようなもの。兵士が優秀でも戦に負けます。
この話をするとき、むかしから、1950年代にスウェーデンで作られていたレーン=メイドナー・モデルの話をするのですけど、スウェーデンでは連帯賃金政策というものを展開していました。つまり、自動車を作るという同一労働をしているのであれば、企業Aでも企業B…でも同一の賃金を払いなさいと中央で決める。そうすると、次の図では、企業はAとBは、廃業もしくは合理化するしかない。連帯賃金というのは、一見すると労働組合が好きそうな平等化政策のように見えるんだけど、その実態は、構造転換を促すための成長戦略として機能するわけですね。

スウェーデンのレーン=メイドナー・モデル

注:詳しい説明は『ちょっと気になる社会保障 V3』[292頁]

経済学では、労働力Lなどの生産要素を最も効率的に活用した状況を想定してY=f(L)などの生産関数を描くのですけど、日本の現状はそうした生産関数上にないでしょう。社会保険の適用でさえ耐えられないという企業が山ほどあると、彼らは言うわけですから。

注:詳しい説明は『ちょっと気になる「働き方」の話』[270頁]

今回の適用拡大がほとんど進まなかったということは、日本が持つ潜在的な成長力を犠牲にし、将来世代に残すことができたより豊かな日本を犠牲にしたということにもなります。日本の労働力を使って適用拡大したときの社会保険料を払うことができませんという、そういうビジネスしかやっていない責任は経営者にあって、決して労働者の責任ではないです。

出口そういう経営者は人を雇う資格がないというべきです。社会保険というのは、使っている労働者が病気になったり、年をとって働けなくなったりしたときに、生存を保障するものでしょ? その社会保険料を払ったら会社がつぶれるというのであれば、それじゃあ、人を使わず、社長ひとりで仕事をしてくださいというべきです。社会保険料を払えない経営者に人を雇う資格があるのかということを市民に訴えていかなければならないということです。

坂本適正な報酬、広い意味での給料を払っていないということですからね。

権丈2004年制度改正が行われ、10月1日に社会保険料が上がるのですが、そのときに朝日新聞に、「これ以上保険料が上がれば、従業員の福利厚生を考える企業が生き残れなくなる」という記事が掲載されてました。そのときぼくは、次のような文章を書いているんですね。
「これは、僕ではなく妻の説明の仕方なんだけど、社会というのは、児童労働の禁止をはじめとして、ある条件を満たす企業、社会的に定めた一定水準以上の労務コストを負担することができる企業にしか、その社会での存在意義を認めないという判断をしているんだよな。年金保険料を2017年に18.3%にまで上げると決めることは、それに耐えうる企業に、日本の労働者を雇ってもらいたい、耐えきれない企業にはご退出願いたい、低賃金労働者に依存したビジネスモデルから新しいビジネスモデルに転換してもらいたいということを意味するわけである。そしてもし、ある企業が、その保険料の負担に耐えられず、そこで働いていた人が失業することになれば、それは、その労働者ひとりの個人的責任と自然法の帰結ではなく、社会全体で負うべき社会的責任なのだから、セーフティネットと職業訓練でしっかりと対応する。そしてそういう政策が、成長政策の一環でもある」*1。妻というのは、労働経済学者ですけど(笑)*2

*1:勿凝学問352「2004年改正年金法施行日朝刊の記事――保険料を上げることは、それに耐えうる企業に労働者を雇ってもらいたいということ」より。
*2:権丈英子亜細亜大学教授は『ちょっと気になる「働き方」の話』の著者。

2004年時のマスメディアの反応から、今はだいぶ変わってきたのかもしれないですけど、今回感じたことだけど、記者たちは、結果を予測する方に関心があって、どうすべきかということは二の次でしたね。

出口スクープねらいですね。

権丈それと、むかしからそうなのですけど、専業主婦を敵に回したくないからと、大手の新聞は、適用拡大の報道をしない。
先ほども話したように、スウェーデンでは、連帯賃金を払うことができない企業は合理化を図って付加価値を高めていくか、退場してもらうかという経済政策をとってきた。小国が世界と戦っていくためには必死だったんだと思います。
年金部会でもそういう議論をしていたのですが、そうした議論を一緒にしていた厚生労働省が自民党に行き、公明党に行き、そこに今回は、全世代型社会保障検討会をしきっていた経産省の役人が適用拡大に立ちはだかって、最初は300人超とか言っていたのですが、50人超規模の企業を対象とするというように政策が決まっていった。この間、野党はまったく機能せず、足を引っ張ってばかりだった。政策形成プロセスもなんとかしなければいけないんでしょうね。最終的な意思決定権を持っている政治家が、正しいことをしたほうが選挙に有利になるという世論をどう作るかということになりますね。繰り返し言ってきましたが、適用拡大は絶対正義なんですよね。

出口ぼくが講演会などをやっていて感じるのは、「適用拡大」という言葉を知っている人は1割いないのですよ。これもやはり厚生労働省の責任だとは思うのですが、知識は力なのですから、正しいことを知れば、ふつうの人は適用拡大のほうが得だという判断ができるのです。でも、知らなかったら、ついつい中小企業はかわいそうという感情論に流されてしまいます。定量的なデータに基づいて、適用拡大を行えば、社会全体でこれだけプラスになるというデータを示し、中小企業はかわいそうだという感情論を打ち破っていかなければなりません。だから、これから日本をよくしていくひとつのカギは、適用拡大のことを知ってもらって、市民の意識を変えることで、「適用拡大を行ったら中小企業はつぶれる」という大合唱を、どう変えていけるかが一番の政治的課題だという気がします。

権丈昨年、ぼくのゼミの3年生に「成長戦略って本当にあるの?」という問題を考えてもらっていました。そうしたら、まず、中小企業の保護のことを成長戦略と思ったみたいです。日本では、経済産業省が成長戦略とかいう名前で、中小企業に補助金を出しているというのを見て学生たちは最初にそう思ったようなんですね。
中小企業が大企業の下請けになるかたちで搾り取られている現状もあるわけですが、中小企業の経営が苦しくなって中小企業がいなくなったときは、大企業もそのままではいられなくなるわけですから、そうした大企業による下請け中小企業からの搾取のしくみそのものを変えていくところまで、低い付加価値しか生み出せない企業による労働力のダンピングを許さないという方針で進めていく必要があります。
すみません、出所を明らかにするという癖がぼくらにはありまして(笑)、出所というのは妻なのですけど、労働力が不足するというとらえ方ではなく、労働力の価値が高まる労働力希少社会になったのだから、いまは、その希少な労働力をいかに有効に使うかという観点から、いままで変わらなかった宿痾(しゅくあ)のような悪弊、日本固有の歴史が変わろうとしている段階にあるんだという理解が必要なんだと思います。「不足」と言うから、いかにして労働供給曲線をもっと右にシフトさせるかという話になってしまうのですが、労働力希少社会という観点から見れば、労働供給曲線が左にシフトしながら、労働条件が改善される方向に動いているのが、いまという時代に見えてくるんですね。
20世紀末から世界的に安価な労働力が増えていって、グローバリゼーションのなかで日本でも労働力を安く利用することのできる制度が整備される流れに入っていったのですが、今度は労働力が絶対数で減少し始めている日本にあって、その流れを反転、逆転させて、効率的に付加価値を生み出していき、労働力が希少になって付加価値の分配においても労使の交渉上の地歩(bargaining position)に変化が起きて、制度そのものが変えられ労働力を買いたたくことをできなくする、そういう良いきっかけができるのではないかと期待もしています。

出口適用拡大という原理原則を貫徹させることにより、中小企業が淘汰される。そうなると中小企業を傘下においていた大企業もその影響は免れなくなる。でも大企業は500兆円もの内部留保を持っているわけですから、とりあえずはそれを吐き出せばいいわけですよ。そういう面においても、力のない中小企業はつぶしていくというのは最善の政策なのです。

権丈そういうことなんです。内部留保を使わざるを得ない状況をいかにつくるかです。いくら税制などで政策誘導してみても、内部留保は増える一方です。それを吐き出さざるを得ない状況に持ち込まないといけません。それを労働市場の逼迫という市場の力に任せる。そのスタートが、適用拡大であり、アトキンソンさんが言われている最低賃金の引き上げなんですね。実際は、中小企業が廃業して困るのは大企業という構図になっているわけですから。
適用拡大を巡っては「議論の整理」でも、最後まで攻防がありましたね。使用者団体は、最後まで、悔し紛れの文章をいっぱい書き込んできたのですが、出口さんが、適用拡大そのものに反対する意見があることに異を唱えなかったら、その文章が残ってしまうところでした

「議論の整理」(案)の変更箇所(下線部分)

第15回年金部会(令和元年12月25日)に示された「議論の整理」(案)
○他方で、本部会では、被用者保険の適用拡大は、事業者側の社会保険料の負担を増加させるものであり、適用拡大に当たっては中小企業への負担に配慮することも重要であるという意見や、そもそも適用範囲を拡大することに慎重な検討を求める意見もあった。 

令和元年12月27日に公表された「議論の整理」
○他方で、本部会では、被用者保険の適用拡大は、事業者側の社会保険料の負担を増加させるものであり、適用拡大に当たっては中小企業への負担に配慮した慎重な検討が必要であるという意見もあった。

注:下線は編集部が付す。

出口あともうひとつ、話は変わりますが、よくわからないところとして、事務局のみなさんが今回の制度改正で保険料はもう絶対に上げませんと、固定していますということを繰り返し説明されていたのですが、ぼくは、市民が年金をもっと上げてくれという声が大きくなれば、別に厚生年金の保険料率を20%でも25%でも上げたらいいと思っているのです。というのも、結局は、「負担が給付」ということですから、2004年の制度改正を金科玉条にして、もう未来永劫、保険料負担は触りませんというようなイメージを市民にPRするのはどうかと思うのですが、ここはどう考えたらいいのでしょうか。

権丈うーん、戦術上そうなりますね。オプション試算で示した改革の方向に刀折れ矢尽きるまで努力した後でないと、改革のエネルギーを筋の通った方向に集中させることがむずかしくなりますから。

坂本2004年制度改正のときのフレームワークとしては、保険料はもう限りなく上がるというイメージがあるということで、それで、保険料固定方式を導入したという経緯があったのですが。

出口そこで、いったん保険料を上げるのを止めて、マクロ経済スライドとセットにして、給付水準の伸びを抑えていくのですが、ただ、いまはもう、スライド調整が始まっているので、保険料の固定ということを、もうそう言わなくてもいいのではないかと思うのですが、これは戦術と割り切ればいいんですね、わかりました。

権丈ぼくは、将来、所得代替率50%をチェックする基準年齢を、現行の法定支給開始年齢65歳から平均受給開始年齢の実績値に置き換えて、そこで50%を切ったら、保険料率を上げることを法律に書き込むように言い続けてきました

権丈善一『年金、民主主義、経済学』[186頁]

そうすると、保険料の引き上げを嫌がる企業側は、雇用の延長や繰下げ受給までのつなぎ年金を準備するなどの方向に意識が向かいますから。そのあたりを、『年金、民主主義、経済学』の原稿には、「もっとも、現在は04年フレームを厳守している時代であるから、これは夢である。04年フレームのもとでやるべきことを、刀折れ矢尽きるまでやる」と書いていたのですけど、どうも、編集者が、「やるべきことはやる」[同書170頁]に書き換えていたようで(笑)。とにかく、オプション試算で示された改革は、刀折れ、矢尽きるまでやる

「みんなの介護 賢人論。第58回【中編】年金は刀折れ矢尽きるまで改革をやる そのために正確な情報の発信が重要」2018年2月1日
https://www.minnanokaigo.com/news/special/yoshikazukenjyo2/

坂本2016(平成28)年制度改正で、第1号被保険者も産前産後期間は保険料を免除し、この期間の給付は満額保障とすることになりましたが、その見合いの負担として、第1号被保険者全体で分かち合うということで、国民年金の保険料を100円上げていますが、こういうことはあるのでしょうね。

権丈そうですね。実際に追加的に保険料を徴収しました。それとぼくが、年金局が資料を作るときに注文していることは、保険料水準は固定しているけど、「保険料収入は固定していない」ということ、つまり「保険料収入を固定する」という書き方はしないでほしいと話しています。保険料収入を増やすために、被保険者期間の延長などをやろうとしているわけですから。

出口経済成長して給与が増えたら、保険料収入はいくらでも上がりますからね。

権丈そうです。厚生年金のような賃金比例の保険料ですと内部留保が賃金に回るだけでも、保険料収入は増えます。第1号の定額保険料でも被保険者期間の延長で収入は増えるし、適用拡大では国庫負担収入も増える。いろんな作戦を考えているわけです。だから、くれぐれも「保険料収入を固定」という言葉遣いはしないでおくれと言っていたりもしています。

 

一石五鳥の政策の適用拡大に、さらに2つ加わり一石七鳥になった

出口適用拡大を100%実現したら、セーフティネットが機能し、中小企業がつぶれても労働者が路頭に迷うようなことはありません。適用拡大というのはほんとうに一石五鳥の政策なのです。というのも、適用拡大によって、オプション試算で示されているように将来の所得代替率はアップします。つまり、年金財政が安定するのです。また、社会保険料を負担できないような企業は退場を余儀なくされます。被用者であればすべて厚生年金となり、国民年金にシフトしなくていいので、労働の流動性が高まります。さらに、短時間労働者である第3号被保険者は第2号被保険者にシフトすることで、数のうえで、第3号被保険者問題の解消が進みます。そして、正規・非正規と労働者を区別することの意味がなくなります。だから、適用拡大は一石五鳥のこれだけの起爆力を持つ政策だということを、市民が知らないということこそが、この社会の問題なのです。

権丈社会保険料を負担できないゾンビ企業は市場から退出するというのは、適用拡大は成長戦略であるということですね。あと2つ付け加えると、適用拡大しても、新たな国庫負担は発生しません。厚生年金の適用拡大をすると、医療の被用者保険のほうの適用拡大も進んでいって、その分、国民健康保険に入っている国庫負担分が減っていくので、適用拡大による基礎年金での国庫負担増と国保での国庫負担減が相殺するから、厚生年金の適用拡大は増税しなくてもできるんです。もう一つは、適用拡大は、基礎年金の所得代替率を上げるんですね。
たとえば適用拡大の効果だけを取り上げれば、ケースⅢの場合、1,050万人の適用拡大を行えば所得代替率が4.8%ポイント高まるわけですが、内訳は、基礎年金は5.7%ポイント増で、比例は0.9%ポイント下がるんです。先ほどから話題に出ているオプションAで1,050万人適用拡大、それにオプションBを組み合わせた改革案では、ケースⅢの場合、所得代替率が11.5%ポイント上昇する。その内訳は、基礎年金が9.7%ポイント増、比例が1.9%ポイント増で、いま示されている2つの改革オプションは、主に基礎年金の給付を上げるための改革なんです。先ほど出口さんも「ゆがんだ議論」とおっしゃっていましたが、基礎年金部分の給付の引き上げこそが重要という基礎年金グループと呼べる人たちのゆがんだ議論を鎮めることもできます。

出口権丈さんに教えていただき、適用拡大は一石七鳥になりました。こんなすばらしい政策があるのだということを市民に知らしむことが一番のカギじゃないですか。

適用拡大は「一石七鳥」の年金政策

①将来の年金の所得代替率をアップさせる。
②社会保険料を負担できない企業が退場していなくなる=適用拡大は成長戦略
③被用者はすべて厚生年金の被保険者となり労働の流動性が高まる。
④短時間労働者の第3号被保険者は第2号となり第3号被保険者問題の解消が進む。
⑤正規・非正規労働者と区別する意味がなくなる。
⑥適用拡大は財源問題(新たな国庫負担)を発生させない。
⑦基礎年金の給付水準引き上げための効果的な策であるため、基礎年金のみを問題視するグループを鎮めることができる。

権丈だから、今回残念だったのが、年金局や、適用拡大に協力的だった財務省が政治家に説明に行くと、政治家は、「国民年金と厚生年金の積立金統合を言う人がいるけど、あれはどうなの?」と言い、年金局、財務省は説明の持ち時間の相当部分をこの説明に使わされることになったことです。
昨年12月25日の年金部会で、年金課長が、「乱暴に積立金だけを統合するといったような議論は聞いたことがございませんし、……繰り返しになりますが、積立金の統合というのは、通常は制度統合でもない限りは議論の俎上にも上らないようなものでございます」と発言した直後に手を挙げて、「基礎年金の劣化、劣化」と3回くらい連呼した委員もいまして、彼が今回、積立金の統合という話を新聞に書いて、政治家への適用拡大の説得の足をひっぱった。まぁ、むかしから民主党の年金論にお墨付きを与えたり、民主党政権下の運用3号問題で担当課長の更迭展開した際の記録回復委員会、この前は、金融審議会市場ワーキング・グループで「月々の赤字は5.5万円ではなくて、団塊ジュニアから先の世代は10万円ぐらいになってくるのではないか」とも発言。基礎年金ばかりに関心のある人たちは、年金部会での議論の中心が、将来の給付水準、特に基礎年金の給付水準を上げるための改革であることが眼中にないのではないか。

金融審議会市場ワーキング・グループ(第21回)
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/market_wg/gijiroku/20190412.html

これは三井住友信託銀行の藤本裕三さんがおっしゃっていることですが、対象となる5.5万円足りないという人も、この数字そのものにも多くの問題があるのですが、70歳まで繰り下げれば3万円ほどの黒字になるわけで。
それに、金融審議会市場ワーキング・グループの報告書は昨年6月3日にまとめられていて、翌6月4日は、「日本金融ジェロントロジー協会」の初会合が開かれて、駒村さんが顧問に就任という運び

産経新聞「日本金融ジェロントロジー協会初会合「高齢者に対する金融サービス充実を」2019年6月4日
https://www.sankei.com/economy/news/190604/ecn1906040026-n1.html

民主主義というのは忘れっぽくはあるのですが、歴史にどのような記録が残るかということを意識しないとダメだし、ある年齢になると自分の歴史で仕事をすることになる。特に、年金経済学者という人たちは、過去、どれほど世の中に迷惑をかけてきたのかを自覚してもらいたい。
今回の制度改正の議論では、税が絡んでくると、税に対してはまったく消極的な政権のもとでは、年金をはじめいっさい動けないということがよくわかりました。だから、現行では20歳以上60歳未満の40年の保険料拠出期間を20歳以上65歳未満の45年に延長するという改正案は話題にさえできないという感じでした。

出口結局、延長した5年間の基礎年金の給付に国庫負担割合2分の1の税が絡んでくるということですね。

権丈そうです。だからそこはいっさい動かすなと。

出口ほんとうに惜しむらくは、政策決定のプロセスがよくわかるこのペーパー(「議論の整理」)がむずかしくて、専門的すぎるので、市民のほとんどが読まないのではないかと心配です。だから、「議論の整理」の中心テーマである適用拡大のメリットをわかりやすく示した「一石七鳥」をマスメディアにもご協力いただき、どんどんPRしていかなければいけませんね。

権丈いまのご発言はぼくにとってはとても新鮮でした。出口さんは、政策決定プロセスがわかるように、報告書をまとめるべきというお考えですね。たしかにそうですね。成功したときの報告書は結果を書くのみでいいでしょうけど、失敗したときの報告書は、なぜ、失敗したのかを書いておかないと、次も同じことを繰り返しますね。
ぼくと出口さんの考えるところは同じで、民主主義の政策決定のプロセスのなかに正確な情報をいかに広く発信し、正確な情報に基づく健全な世論に機能してもらうしか、解決策がないと考えているんですよね。民主主義は放っておくと不完全なものだけど、これを活用するしか方法はないと。
とにかく、次の選挙で勝つためにどうすればいいかを考えている政治家に、理性や論理を求めることはむずかしいので、政治家が圧力団体の言うことを聞くのと、正しい知識に基づく世論を考えて動くのでは、どっちが得かを考えてもらう。政治による勝算ありの選択が正しい道となる環境、正しさに力を与える環境をつくっていくしかないですね。

出口市民の知識武装しかないですよ、それが決定的に大事なことです。

権丈ぼくはそこのところがわかっているほうだと思うんですけど、いかんせん知名度が(笑)。

【その3に続く】

撮影協力:内神田「いく代寿司」
年金時代