年金時代

対談 日本年金機構10年のあゆみを振り返るー模索と基盤づくり、そして再生への途ー

 

日本年金機構は今年で設立10年を迎える。設立当初から社会保険庁時代の年金記録問題への対応を迫られる一方で、基幹業務の遂行など、さまざまな問題と課題を負ってきた。第2期中期計画期間中に生じた個人情報流出問題により厚生労働大臣から業務改善命令を受けるが、これを契機に「日本年金機構再生プロジェクト」を策定し、本来業務をより強固にするための業務改善に取り組む途を拓く。
設立委員の1人であった神奈川県立保健福祉大学名誉教授の山崎泰彦氏と、日本年金機構の初代副理事長を務めた薄井康紀氏に、この10年のあゆみを振り返ってもらう。

神奈川県立保健福祉大学名誉教授 山崎 泰彦 (やまざき・やすひこ)
昭和20年生まれ。特殊法人社会保障研究所(現国立社会保障・人口問題研究所)研究員、上智大学講師、助教授、教授、神奈川県立保健福祉大学教授を経て、平成23年神奈川県立保健福祉大学名誉教授。専門は社会保障論。

 

元・日本年金機構副理事長 薄井 康紀(うすい・やすのり)
昭和28年生まれ。昭和51年厚生省(現在の厚生労働省)入省。厚生労働省政策統括官(社会保障担当)、社会保険庁総務部長・日本年金機構設立準備事務局長、日本年金機構副理事長を歴任。平成25年12月厚生労働省退職、平成27年12月日本年金機構副理事長退任。

 日本年金機構発足の経緯
非公務員型の特殊法人に

山崎 十年一昔と言いますが、この間いろいろなことがありましたね。日本年金機構(以下、年金機構)の発足前には不祥事等が重なり、政権交代もありました。振り返ってみると、社会保険庁時代のことを知っている者からすると、この10年でガラリと変わったなと思います。ただ現実には、年金という複雑な制度ですし、国民と向き合うなかではいまでもいろいろな問題が出てきているし、今後も避けられないかもしれません。
今日は、年金機構の副理事長を退任されるまで、薄井さんの年金との関わりをお話しいただけますか。

薄井 私は、旧社会保険庁で何度か仕事をしたことがあり、社会保険庁のいろいろな問題、年金記録の問題を含め、かつて在任していた者としてもう少しやるべきことがあったのではないかということを常に反省しています。国民の皆さんにご心配、ご迷惑をおかけしたので、やはりそこは本当にお詫びをしなければいけないといまも思っています。
ただ、平成12年の4月、地方分権一括法で年金と政管健保が国の直接執行事務になりました。現在「ねんきん定期便」がありますが、そういうものの構想も、その頃から検討を始めていました。いまはお客様、当時はまだ国民という言葉を使っていましたが、国民を意識した仕事をしなければいけないという意識を持ち始めてはいました。
いまの日本年金機構は、平成22年1月にスタートして間もなく10年になりますが、社会保険庁改革の議論が始まったのは、村瀬清司さんを民間から長官としてお迎えした平成16年のことです。村瀬さんが来られたところで私は内閣府に経済財政運営担当の大臣官房審議官として出向しました。2年経って厚生労働省に戻りましたが、直接社会保険庁改革を担当することはありませんでした。ただ、社会保険庁改革は経済財政諮問会議でも議論されましたし、厚生労働省に戻ってからは社会保障担当政策統括官として省内の動きは見ていましたので、ずっとウォッチはしていました。
平成19年6月に日本年金機構法が成立して、平成20年7月に「日本年金機構の当面の業務運営に関する基本計画」が閣議決定されました。そのタイミングで、私は、社会保険庁の総務部長と併せて年金機構の設立準備事務局長という辞令を受けました。仕事としては、社会保険庁の店じまいと、年金記録問題への対応を含む業務の遂行、そして社会保険庁の立場での年金機構の設立の準備を、1年半ほど担当させていただきました。そして平成22年の1月に年金機構が発足したときに副理事長を拝命して、それから6年間副理事長を務めさせていただきました。準備から含めると7年半、この関係の仕事をさせていただいたということです。

山崎 薄井さんは若い頃、社会保険庁の国民年金課の課長補佐をされたことがあって、ちょうど基礎年金を導入する仕事に関わったことがありましたね。昭和60年改正の頃でしたが。その後村瀬長官をお迎えする直前の平成12年9月に社会保険庁運営部の企画課長、経理課長、総務課長、運営部長を経て、平成16年7月に内閣府に出向されるまでの4年間在籍されました。社会保険庁で改革を模索をした時代だったわけですね。

薄井 そうですね。平成16年はマクロ経済スライドを中心とする大改正があった年ですから、その国会審議中はいつも委員会におりましたし、そういうなかでいわゆる福祉施設をはじめとする保険料を給付以外に使っている問題であるとか、あるいは年金記録の業務目的外の閲覧の問題とか、これらが大きな問題になった頃までおりました。そういう状況から、どうしても社会保険庁の改革はしなければいけないという議論になり、村瀬さんをお迎えしたわけです。私はそこで一度卒業したような形ですね。

山崎 村瀬長官をお迎えして、年金機構法案に至る前にいったん社会保険庁改革2法案というのをつくりますよね。どのような切り替えがあったのでしょうか。

薄井 もともと社会保険庁の改革というのは経済財政諮問会議や政府全体でも議論があって、政管健保はいまの全国健康保険協会に改組されたという話がまず一つです。もう一つは年金部門ですね。これについては最初は国の特別の機関として、要は公務員による新しい組織にするという案がありました。たしか平成18年に国会に提出されました。ところが、そのときに国民年金保険料の不適正免除という問題が出てきて、もっと根本的なところから議論をしなければいけないということになりました。そこで最初の平仮名の「ねんきん事業機構」から漢字の「日本年金機構」をつくるという法律案が平成19年に国会に提出され成立しました。現在の年金機構は非公務員型の特殊法人ですから、最初の改革案とは姿が違うわけですね。

山崎 端的に言ってどのように違いますか。

薄井 最初の案は国の機関でしたが、民間の感覚も入れた非公務員型の特殊法人という点でしょう。あとで基本計画の段階で議論されましたが、社会保険庁からくる職員のほかに民間からも相当数の職員を採用するという形で整理されたということです。
準備をする立場から言うと、国の機関だと会計も人事も基本的なルールは全省統一で決まっています。ところが特殊法人となると、やはり会計の規則であれ人事の規則であれ、いろいろなものを全部一からそろえなければいけません。
もう一つ申し上げておきたいのは、よく年金記録問題が発生したから社会保険庁は廃止されて年金機構になったと言われます。たしかに年金記録問題は非常に大きな問題ですが、先ほど申し上げた経緯からおわかりのように、年金記録問題が大きな問題になったのはたしか平成18年の秋くらいから19年にかけてで、法案はその途中で提出されました。法案審議の過程で年金記録問題は非常に大きな問題になりましたが、記録問題がなくてもやはり社会保険庁改革は必要とされていたということだと思います。

山崎 年金記録問題があり、社会保険庁改革は、いよいよ本腰を入れなくてはいけないということだったのでしょうね。

薄井 むしろ記録問題が出たあと、年金機構の基本的な建て方、つまり法律に基づいて基本計画をつくることになって、内閣にそのための会議の場が設けられて議論をしたわけです。その議論では、記録問題という大きな問題があったことを前提に議論されましたから、そこはやはり記録問題を踏まえて新しい組織が形作られたということだと思います。

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