年金時代

【書評】井出真吾著「『年金巨額損失』というニュースの正しい読み方」[ニッセイ基礎研レポート2020-04-02所収](評:玉木伸介さん)

新型コロナウイルスは、今までとは大きく異なる「ショック」をもたらした。このショックの全体像は、まだわかっていない。全体像がわからないといえば、リーマンショックだ。2008年9月半ばのリーマンブラザーズの破綻は、世界中を驚かせ、世界の金融・資本市場は凍り付いた。あの時の不透明感をご記憶の方は多いだろう。
リーマンショックは、公的年金積立金を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)を翻弄した。2008年度のGPIFの損失は、額で▲9.3兆円、率では▲7.6%だった。メディアは競って大見出しを掲げた。「将来の年金給付が危ない」という類の報道もあった。翌2009年度、株式市場は反転し、GPIFの収益は額で+9.2兆円、率で+7.9%と、前年の損失とほぼ同じ規模だったが、メディアの見出しははるかに小さくなった。その後の展開を見れば、市場の変動で年金財源が損なわれたという事実は認められない。しかし、国民の心の中では、積立金運用に対するマイナスイメージと将来の給付への不安感が膨らんだままだろう。

井出真吾氏のレポート「『年金巨額損失』というニュースの正しい読み方」における試算に従えば、GPIFの損益は2019年度で8兆円程度、1-3月期に限れば約17兆円もの損失だ。確かにショッキングな数字であるが、国民の老後の生活の安定という公的年金保険制度の目的に照らせば、さほど大きな意味を持たない。このことは、上述のレポートにおいて、手際よく示されている。
このレポートは、「年金運用については、断片的な情報を鵜呑みにすることなく、本質を見極める姿勢が必要だ」という一文で結ばれている。きわめて有益な指摘だ。メディアにせよ研究者にせよ、年金コメンテーターとして国民に奉仕しようとするなら、「本質を見極める姿勢」を確立することが必要だ。
では、年金積立金、特に賦課方式の公的年金の積立金運用の「本質」とは何であろうか。「本質」に「長期」という属性が含まれることは間違いないから、「本質」に接近する一つのルートは、「長期」の定義に関する議論を深めることだろう。「長期」は、市場と経済の変動を「均す」はずだ。上がったものは下がり、下がったものは上がる、という回帰性あるいは復元性(英語を使えばresiliencyだろうか)とかかわるものだろう。

経済の復元性・resiliencyは、時々、想定を大きく超えて作用する。極めつけは、第二次世界大戦後の廃墟からの復興だ。昭和31年度の経済白書は「もはや戦後ではない」という名言で知られているが、あれだけの破壊があっても約10年で戦前水準に戻ったのである。国中で地上戦が行われた西ドイツの経済が戦前水準を回復したのは、日本よりも5年ほど早い。まさに「奇跡の復興」だ。1945年時点では全く想定されなかったことが起きたのだ。
逆方向の復元の事例は、バブル期の日本だ。皇居一つでカリフォルニア全部が買えるという東京の地価をおかしいとは誰も思わなかった。国中を覆っていたこの壮大なる勘違いは、その後の事実によって白日の下にさらされた。
人知なるものは、かくも限られている。

では、ごく限られた人知をもってすぐにできることは何か。それは、GPIFの単年度の損失の大きさに振り回されることなく、国民に、「大事なことは長い老後の生活の安定でしょう。GPIFの運用も長期の観点から見なければ意味がありませんね」と、「生活」を起点とする発想を促すことではないだろうか。この点で、井出氏のレポートは明らかに有用だ。
今回のパンデミックに伴う市場の変動は、図らずも、多くの国民がGPIFに目を向ける機会を提供することになりそうだ。「本質を見極める姿勢」の大切さの認識を広めるチャンス到来というべきだろう。

「年金巨額損失」というニュースの正しい読み方」
井出真吾 著
ニッセイ基礎研究所発行「ニッセイ基礎研レポート2020-04-02」所収

https://www.nli-research.co.jp/files/topics/64160_ext_18_0.pdf?site=nli

玉木 伸介(たまき のぶすけ)大妻女子大短期大学部教授
1979年東京大学経済学部卒業後、日本銀行入行。企画局、情報サービス局広報課長等を経て、2001年、総合研究開発機構(NIRA)に出向、公的年金積立金の運用の研究に従事。2009年、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)出向。2011年4月より現職。社会保障審議会「資金運用部会」委員、「年金財政における経済前提に関する専門委員会」委員、国家公務員共済組合連合会資産運用委員会委員、独立行政法人勤労者退職金共済機構資産運用委員会委員なども務める。
1983年、ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンスにてMSc. in Economics(経済学修士)を取得。
主な著書等に『年金2008年問題』(2004年、日本経済新聞社)、“Managing Public Pension Reserve Funds: The Case of the Government Pension Investment Fund (GPIF) of Japan”(International Journal of Pension Management, Vol. 5, Issue 2, Fall 2012)、「公的年金の積立方式に関する金融の観点からの検討」(『季刊社会保障研究』Vol. 49、No. 4、2014)、「若者に伝えるべき公的年金保険の原理 ―― 彼らの将来の生活の視点から ――」(2016年、一般社団法人 日本経済調査協議会)がある。

 

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